ジミー・カーターの人格[Part.2]:『American Experience: Jimmy Carter(PBS)』
誠実さと公正さを体現した第39代米大統領ジミー・カーター。混迷する現代の政治リーダー像とは一線を画し、彼が歩んだ生涯と大統領在任中のエピソードは今なお多くの人々の心を動かしています。前回は『Malaise Speech(倦怠/脱力 演説)』と呼ばれるカーターのテレビ演説の動画を掲載しましたが、今回は、彼の人物像やリーダーとしての資質に迫り、”信頼”とは何かを考えさせる内容となります。
カレッジ時代、PBS(米国の公共放送サービス)で『American Experience: Jimmy Carter』を視聴しました。それ以降、ジミー・カーターという人間に魅了されます。もともと『American Experience』というドキュメンタリー番組が好きで当時VHSテープに録画し、のちにDVDに焼いて保存してたまに再視聴をしていました。年月とともにそのDVDは再生が不安定になってきて、日本では他で視聴する方法はありません。
視聴不能になる前に、2時間近くのドキュメンタリーの内容を部分的に削り、まとめて以下に残します。
『American Experience: Jimmy Carter』
(2002/11/02 PBS放送)[番組トランスクリプト]
ジミー・カーターの父であるアール・カーターは、ジョージア州南西部の基準で言えば、小さな帝国の主のような存在だった。彼は筋金入りの人種隔離主義者で、トウモロコシ、綿花、ピーナッツを栽培する350エーカーほどの土地を所有し、収穫期には200人以上の労働者を雇っていた。彼の農場があるアーチェリーには、彼に生活を頼る5つの小作農家族が一年中住んでいた。カーターの母親、リリアンは読書家で、旅行好き、バーボンをたしなむことでも知られていた。彼女は近くの病院で看護師として長時間働き、自由な時間の多くを病気の近隣住民の世話に捧げていた。
ジミーはオールAの成績を取り、バスケットボールをし、読書愛好会にも入っていた。シェイクスピアの『リア王』や『ベン・ハー』、『ノートルダムの鐘』を読んだ。彼は海軍に入ることを夢見ていた。叔父のトム・ゴーディが、遠く異国の地からの冒険談や絵はがき、贈り物の話で彼の想像力を刺激していたのだ。1943年6月、18歳のこのプレインズの農場の少年は、アナポリスのアメリカ海軍兵学校に入学した。カーター家で初めて、ジョージア州を出て高等教育を受ける者だった。
アナポリスを卒業してから1か月後、カーターは妹の友人のロザリンと結婚した。彼女は18歳、彼は21歳だった。海軍に入隊してから2年後、カーター少尉は潜水艦隊に受け入れられた。これは競争の激しい環境で早く昇進するための方法だった。1953年、シーウルフ号での勤務を始めてから1年も経たないうちに、カーターは故郷からの知らせを受け取った。父親が癌を患い、長くはもたないだろうということだった。カーターがプレインズを離れて海軍のキャリアを追い始めてから10年が過ぎていた。故郷への訪問はまれで、父と息子は疎遠になっていた。アールの病床に座りながら、ジミーはこれまで見たことのない父の一面を知った。
「私たちの長い会話は、黒人も白人も交えた多くの訪問者によって中断された」とカーターは後に書いている。
「驚くほど多くの人々が、父の個人的な影響や多くの秘密の寛大な行為が彼らの人生にどのように影響したかを語りたがっていた。」
それから、彼はすべてを投げ打って父親を真似し、父の事業を継ぐことにした。
カーターはあらゆる労力をピーナッツ栽培に注いだ。
「彼はいつも実験をしていた」と妻のロザリンは後に書いている。
「新しいことに挑戦し、次にやりたいことを夢見ていた。」
カーター夫妻は釣りに出かけ、ゴルフを楽しみ、頻繁に休暇を取った。
ジミーはサムター郡の教育委員会の委員を務め、プレインズ・バプテスト教会で日曜学校の教師をし、スカウトマスターやライオンズクラブの副会長も務めた。
しかし、彼は「退屈の境地に達していた」とロザリンは振り返っている。
そして1962年のある平日の朝、彼は起きて、日曜用のパンツを履いた。
「彼が州上院議員に立候補することを考えているなんて、まったく知らなかった。」とロザリンは追想する。
ジミー・カーターの最初の選挙運動は、資金もスタッフもないわずか15日間のものだったが、家族や友人の支援と彼自身の強い意志で戦った。彼は政治に不慣れではなく、幼少期から父とともに集会に参加するなど政治が身近な存在だった。
1963年1月、カーターはジョージア州上院議員として就任し、多くの新人議員とともに旧来の政治を改革しようとした。
リロイ・R・ジョンソン(当時のジョージア州上院議員):
私は、100年ぶりにジョージア州議会に選出された最初の黒人という幸運に恵まれた。カーターは当時、そうした議員の一人として上院に加わった。彼は上院のリーダーではなかった。静かで、着実で、慎重に行動し、波風を立てなかった。1966年、ジョージア州上院で2期務めた後、ジミー・カーターはジョージア州知事選に挑んだ。彼は、人種隔離主義の強硬派レスター・マドックスに大きく差をつけられていた。マドックスは、黒人を自分のチキンレストランから遠ざけるために斧の柄を振り回したことで有名だった。カーターは、より良い学校、より良い病院、より良い道路、そしてより有能な政府を約束した。ある記者はこう書いている。「カーター上院議員が州政府について話すのを聞いて、彼の誠実さに感銘を受けないのは難しい。」
カーターはジョージア州の隅々まで自分のメッセージを届けた。
「どんなことがあっても、私たちは決して諦めなかった」とロザリンは回顧する。
選挙当日には、彼はトップに迫っていた。
チップ・カーター(息子):
私たちは勝つと思って眠りについた。翌朝学校に行くと、父が予備選で勝ったと祝福された。しかし午後2時ごろにビリー(叔父)が来て、レスター・マドックスがわずか0.5パーセント未満の差で勝ったと伝えた。それでとても落胆した。
「みんな気分が悪くなった」とロザリンは振り返った。「私たちは6万6千ドルの借金を抱え、ジミーは22ポンド(約10キロ)も痩せていた。」
何マイルも歩き回り、握手を重ね、長い日々を過ごした後、ジミー・カーターは1962年に初めて上院に立候補したときと同じ場所に戻っていた。
数週間後、敗北の痛みが心に残っている中、カーターは妹のルースと散歩に出かけた。彼女は福音派のクリスチャンでスピリチュアルヒーラーだった。
彼は生涯を通じて教会に通うクリスチャンだったが、自分の信仰が浅かったと感じていた。
「私たちは二人ともバプテストだ」と彼は言った。
「でも、君が持っていて、私にないものは何だ?」
「完全なる献身よ」と彼女は答えた。
「私はイエスに属している、私のすべてがそうなの。」
「ルース、それが僕の望みだ」とカーターは答えた。
ダグラス・ブリンクリー(伝記作家):
その時点で彼は、人生でまずキリストを第一に置き、政治は第二にすることを決めた。しかし、それは彼にとって葛藤でもあった。なぜなら、政治はエゴであり、キリストは謙虚さだからだ。彼は一軒一軒家を回り、人々にキリストの証人となり、イエスを自分の人生に迎え入れるよう勧めていた。つまり、10年後にその男がアメリカ合衆国大統領になるなんて想像できるだろうか? 彼はドアをノックして、「聖書が欲しいですか? 神をあなたの人生に迎え入れますか?」と尋ねていたのだ。
1970年、カーターは新たな情熱をもって、2度目のジョージア州知事選に出馬した。
それは1966年のような素人の選挙活動ではなく、よく調整された取り組みだった。カーターはサウスウェストジョージア出身の二人の若者を迎え入れた。ジョディ・パウエルを個人秘書に、ハミルトン・ジョーダンをキャンペーンマネージャーに据えた。広告担当にはジェラルド・ラフシューンがメディアを担当し、カルフーンの銀行家バート・ランスが顧問役を務めた。民主党指名を争うライバル、カール・サンダースは20%の圧倒的なリードを誇っていた。彼はアトランタのビジネス界の支援を受け、1965年の投票権法以来、投票数が増えたアフリカ系アメリカ人の支持も得ていた。カーターはサンダースに対して容赦なく攻勢をかけた。
カーターはサンダースをアトランタのビジネス界の操り人形として描き、自分自身は勤勉な庶民の代表としてアピールした。
E・スタンリー・ゴッドボールド(伝記作家)
彼は、多くの中産階級のブルーカラー層、主に白人にアピールしたかった。そして、その多くは人種隔離主義者であるだろうと考えていた。カーター自身は1970年には人種隔離主義者ではなかった。しかし、彼は人種隔離主義者たちが聞きたいことを言っていた。彼はスクールバスを使った人種統合に反対し、私立学校を支持していた。また、人種隔離主義者のジョージ・ウォレス知事をジョージアに招いて演説をさせると言っていた。ベティ・グラッド(政治学者):
彼は人種差別的な票を取り込もうとした。1970年にはいくつかのラジオ広告を流した。その中で彼は「サンダースとは違って、私はBlo(/a)ck票を狙っているわけではない」と言ったが、“ブロック(地域)票”なのか“ブラック(黒人)票”なのかは曖昧にしていた。しかし、どちらもほぼ同じ意味だった。もし本当に良い道徳的な目的を達成しようとするなら、そこにたどり着くために、いやな政治家にならなければならないこともあるかもしれない。彼はおそらくそれをあまり好んでいなかったが、それでもやる覚悟があった。リロイ・R・ジョンソン(ジョージア州上院議員):
私たちが得た唯一の慰めは、非公式な会合で彼が私たちを納得させてくれたことだった。もしチャンスが与えられれば、彼は状況を良くすると。彼はいつも”信頼”という言葉を持ち出した。「私を信じてほしい。私は正しいことをすることを信じている」と。1971年1月12日、46歳のジミー・カーターはジョージア州知事に就任した。就任演説で彼は人種問題に関する本心を明らかにした。
ジミー・カーター(アーカイブ映像):
率直に申し上げます。人種差別の時代は終わりました。貧しい人、田舎の人、弱い人、または黒人が、教育や仕事、そして単純な正義の機会を奪われるという余計な負担を負うべきではありません。リロイ・R・ジョンソン(ジョージア州上院議員):
私たちは非常に喜んだ。多くの白人分離主義者たちは不満を抱いた。
そして、彼を支持していた人々も、彼があのような発言をすると考えていれば、支持しなかっただろうと私は確信している。カーターは前例のない数の女性やアフリカ系アメリカ人を任命し、外国からの投資を促進し、州の刑事司法制度や精神保健制度を改革した。彼の政策の中心は、あらゆる面での節約を図るために州政府を合理化するという抜本的な計画だった。
知事の政府機関の数を大幅に削減する提案は、激しい怒りを引き起こした。
リロイ・R・ジョンソン(ジョージア州上院議員):
私はカーターのまったく別の一面を見た。上院議員の時は主張的ではなかったが、知事としては積極的だった。彼は自分がどこに行きたいのか、どの方向に進みたいのかをはっきりと理解しており、完全な従順さを求めていた。1972年の選挙シーズン、ジミー・カーターは民主党の大統領候補者たちに親切にもてなした。知事官邸に就いてまだわずか2年足らずで、すでにホワイトハウスを見据えていた。その7月、カーターはジョージア代表団を率いて民主党全国大会に参加し、副大統領候補の2番目の座を狙っていた。
カーターの陣営幹部は、大物政治家たちが出馬しているのを見て、ジミー・カーターも大統領選に挑戦できると考えた。さらに、他の選挙運動スタッフがやっているなら自分たちにもできると確信を深めた。
カーターは1974年12月に正式に大統領選への立候補を発表した。1期限りの南部の知事であり、当初は勝ち目の薄い候補だった。
ダグラス・ブリンクリー(伝記作家):
誰も彼のことを知らなかった。まるで電話帳から名前を選ぶようなものだった。つまり、ジョージア州の1期限りの知事だっただけで、自分がアメリカ合衆国の大統領にふさわしいと考えるのは、かなりの傲慢さがないとできないことだ。それは行き過ぎた傲慢さの一種だ。ジョン・A・ファレル(ジャーナリスト):
当時、人格は非常に重要な問題だった。国はひどい時代を経験しており、ジミー・カーターは正直さと誠実さの象徴だった。ダグラス・ブリンクリー(伝記作家):
リンドン・ジョンソンはベトナムについて私たちに嘘をついた。リチャード・ニクソンはウォーターゲート事件について嘘をついた。カーターはこう言っているのです。「私は、あそこで物事をめちゃくちゃにしている連中の一人なんかじゃないのだ」と。カーターの選挙戦略はシンプルだった。「早く始めて、全力で走る」こと。
他の候補者たちがまだ立候補を表明する前に、カーターはすでに5万マイル以上を移動し、37州を訪れ、200回以上の演説を行っていた。それはごくわずかな資金で運営された草の根の取り組みだった。
チップ・カーター(息子):
大統領選挙のある時期には、私たち家族の11人が、同時に11の異なる州にいました。私たちは毎日外に出て、戸別訪問をしていたんです。ニューハンプシャー州では、6万軒の家のドアをノックしました。おそらく、州内で特定できたほとんどすべての民主党支持者の家庭だったと思います。カーターの持久力は超人的に思えた。ある記者はこう述べた。「あのハックルベリー・フィンのような笑顔の裏には、24時間のうちわずか6時間しか止まらない完璧主義の選挙マシンがある」と。
州ごとに代議員の数は積み重なっていき、1976年7月に民主党全国大会がニューヨークで開かれる頃には、カーターはすでに指名を確実なものにしていた。
ベティ・グラッド(政治学者):
彼は奇跡を成し遂げた。1975年の秋には、彼は候補者としてほとんど注目されておらず、すべての世論調査で支持率は5%未満だった。ところが、わずか6か月後には民主党の大統領候補の指名を獲得し、世論調査では支持率が70%に達していた。まさに奇跡だった。しかし問題は、彼には弱点があり、それが秋には表に出てきたことだった。
カーターは現職大統領ジェラルド・フォードとの秋の選挙戦を、15ポイントのリードを持ってスタートした。彼は予備選でも掲げていた“誠実さ”と“信頼”というテーマに再び立ち返った。しかし選挙日が近づくにつれて、彼は諸問題に対して立場を明確にするよう求められるようになった。
バート・ランス(カーター政権下 行政管理予算局長):
彼は、中道派にとっては中道的であり、保守派にとっては保守的であり、リベラル派にとってはリベラルだった。
そして実際、彼はそのすべての側面を持っていた。ジョシュア・ムラフチク(政治アナリスト):
彼が外交政策について尋ねられたときの決まり文句は、「アメリカ国民と同じくらい立派な外交政策を提供したい」というものだった。しかし、まあ、それは素晴らしく聞こえるが、一体どういう意味なんだ?ベティ・グラッド(政治学者):
彼が示した要点は、リベラルな価値観を心に持ちながらも、節約や倹約、そして政府の効率性を重んじる中道派の民主党員であるということだった。そのため、民主党のあらゆる層の人々にアピールできる立場だった。しかし問題は、彼の支持が浅く広かった、ということだ。リベラルな民主党支持者の支持が失われつつあることに危機感を抱いたカーターの若いスタッフは、大胆な手を打った。
カーター陣営はプレイボーイ誌のインタビューで信仰と世俗的価値観の両立を示そうとした。
カーターは5時間にわたり、文化・政治・信仰に対する自身の考えを説明しようとしたが、理解されないことにいら立ち、インタビューの終わりにこう口にした。「多くの女性を欲望の目で見てきた。心の中で姦淫の罪を何度も犯してきた。」
しかし彼の「心の中で姦淫の罪を犯した」という発言が誤解を招き、意図とは違う形で注目を集める結果となった。
パトリック・キャデル(世論調査担当):
振り返ってみると、あれはちょっと面白かった。でも当時は全然笑えなかった。ジミー・カーターが変態とか、児童虐待者ではないと人々に説明しようとしていたのだ。ジミー・カーターとジェラルド・フォードが2回行われる大統領討論会の最初の1回目で対決した時点で、カーターのリードは消えていた。勢いはフォードにあった。2週間後、フォードは大失態を犯した。
ジェラルド・フォード(記録映像):
東ヨーロッパはソ連に支配されていないし、フォード政権下でそのようなことは決して起こらない。討論パネリスト(記録映像):
すみません、確認させていただいてもよろしいでしょうか。ソ連が東ヨーロッパを自国の勢力圏として利用していない、とおっしゃいましたか?ウォルター・モンデール(カーター政権下の副大統領):
私たちは、これは大きなダメージになると分かっていた。多くの人が、大統領がそんなことを言うとは理解できなかった。これを徹底的に攻め立てるのに約1週間ほどかかった。そして、その問題で人々の意見が動いているのを肌で感じることができた。あれは、私たちの失速を止めてくれたのだと思う。選挙日の時点で、世論調査はほぼ互角を示していた。勝者が発表されたのは午前3時で、アメリカ史上でも最も僅差の一つとなった。
パトリック・キャデル(世論調査担当):
今振り返ってみると、ただただ驚くばかりだ。全く無名の状態から、12ヶ月も経たないうちにアメリカ合衆国大統領になるなんて、アメリカ史上前例のないことだ。もし1976年に国が何かを求めていなかったら、カーターは決して当選できなかっただろうし、そもそも選挙戦に出ることすら許されなかったはずだ。ヘンドリック・ハーツバーグ(スピーチライター)
ジミー・カーターは、アメリカの人々がいつも望むものそのものだった。政治の枠を超え、政治的な結果に関係なく正しいことをやり遂げようと決意し、嘘をつかない素朴な人間であり、派手な権力的な振る舞いをしない控えめな人物。人々が望むのはまさにそういう人であり、ジミー・カーターこそがまさにそれを体現していた。カーター陣営は自信に満ちてワシントンに到着し、これまで戦ってきたワシントンの内幕者たちに立ち向かう準備ができていた。
カーター政権の若い側近たちは、ワシントンの政治文化に馴染みがなく、内部の人々から反感を買った。彼らは強い忠誠心と自信を持っていたが、経験不足と反ワシントン的姿勢が政権運営の妨げとなった。
パトリック・キャデル(世論調査担当):
1940年にドイツ軍がパリに進撃してきた時の先遣隊のような気分だった。ここは民主党の都市だ。そして彼らは恐れていた。本当に恐れていた。その空気が肌で感じられた。物事を成し遂げるには権力が必要だ。権力は世論の支持から得られる。私の主張は、権力を維持するためには、自分たちが何をしているのかというメッセージを絶えず強化し続けなければならないということだった。2月2日、カーターはエネルギーに関する「ファイヤーサイド・チャット(暖炉のそばで語る演説)」で国民に語りかけた。1973年のオイルショックを経験した国は、新たな危機を回避するため、カーターはアメリカ国民に直接呼びかけ、新しいプログラムを支持するよう訴えた。
ジミー・カーター(アーカイブ映像):
私たちは皆、エネルギーの無駄遣いを減らすことを学ばなければなりません。例えば、日中は温度設定を65℉(18.3℃)に、夜間は55℉(12.7℃)に保つだけで、現在の天然ガスの不足分の半分を節約することができます。倹約して生活し、隣人を助けることの重要性を忘れなければ、私たちは適応する方法を見つけることができるでしょう。カーターは節約のためホワイトハウスのエアコンを止め、行事も深夜までに終了し、強い酒は出さなかったため、室内は極端に暑く、簡素な運営となった。
カーターは下院議長ティップ・オニールに自分の政策課題を提示した。エネルギー問題がカーターの最優先事項だったが、それは病院の費用抑制、都市政策、政府の倫理に関する法案など、多くの他の立法課題と競合していた。政府の運営を円滑にするための便宜を図るものは何も含まれていなかった。カーターが予算からフォード大統領によって承認されていた数千万円規模の水資源プロジェクトを19件削除したとき、議会議員たちは激怒した。
エリザベス・ドリュー(ジャーナリスト):
彼がこうした無駄遣いや本当に不必要なばらまき事業に立ち向かったのは全く正しかった。しかし、彼はそれにどう対処すればいいか分かっていなかった。政治的な信用を築き、同盟を作り、取引をしなければならない。バート・ランス(予算局長):
彼には「見返りを求める取引」はなかった。もし誰かが彼に「こうこうこういう人に賛成票をもらえるようにできる」と言っても、彼は聞く耳を持たなかった。ダン・ロステンスコウスキー(米国議会議員):
ある時、カーター大統領と話しているときに言った。「大統領、あなたの前に3人の大統領を見てきて、あなたの後にも何人も大統領がいます。私は立法過程の立場から見て、あなたができることとできないことを教えます。それを受け入れても受け入れなくても構いません。」しかし、カーターの態度は、「下院議員や上院議員は悪者だ」というものだった。ジョン・A・ファレル(ジャーナリスト):
カーターは、オニールや彼のような人々を、生涯の多くの時間を戦ってきた腐敗したジョージアの郡裁判所の政治家たちと同じカテゴリーに入れていた。彼らは互いに便宜を図り合い、利益を守り、次の選挙や世論調査を気にして、本当に正しいことをしない政治家の一種なのだと。「私の最初の任期の終わりまでに均衡予算を達成するという目標に合致しない限り、新しいプログラムは実施しない」とカーターは誓った。しかし、リンドン・ジョンソンの偉大な社会(グレート・ソサエティ)の社会政策を再開したいと熱望するリベラル派の民主党員たちは譲らなかった。朝食会議で、カーターは議会の民主党指導部を、彼の予算に610億ドルもの新しいプログラムを追加したことで叱責した。「民主党は不当な支出という汚名を取り除く必要がある」と彼は言った。すると、ティップ・オニールはカーターにこう言い返した。「大統領、民主党は貧しい人々と困窮者の味方なのです。」
カーターの財政引き締めへの姿勢は、増え続けるアメリカ国民の支持を集めた。Newsweek誌は、「彼は職務に対し、率直な言葉と簡素な態度というさわやかな習慣をもたらした」と書いた。「鍛えられた鋼のような心と規律、そして飽くなき仕事への情熱を持っている。」カーターはわずか51%の得票率で大統領に就任したが、6月までには支持率が70%を超えた。だが、カーター政権の基盤を揺るがす出来事が起こった。それが「ランス事件」と呼ばれるものだ。1977年7月、カーターの予算局長バート・ランスがジョージア州カルフーンの自身の銀行で金融不正の疑いをかけられた。連邦捜査はランスに違法行為はないと結論づけたが、「安全でない、健全とは言えない銀行慣行」に関与していたと判断した。
ジミー・カーター(記録映像):
バート・ランスは私の完全な信頼と支持を受けています。彼が私の政権の一員であることを誇りに思います。カーターは見誤っていた。報道陣にとって問題は法律ではなく倫理だった。スキャンダルの気配を感じ取ると、彼らは攻撃を始めた。
ジョディ・パウエル(報道官):
多くのジャーナリストは、リチャード・ニクソン大統領と同じくらい民主党の大統領にも厳しく追及できることを証明したがっていた。彼らは、この問題を徹底的に追及する姿勢をはっきり示したいという強い意欲があった。記者たちは、ニクソン大統領を追及したようにカーターにも厳しく接しようとし、彼の“誠実さ”を掲げる姿勢が逆に攻撃対象となった。カーターの高い道徳的基準が、批判の口実を与える結果となった。
カーターの側近たちはランスを解任するよう強く促した。しかし彼は、友人への忠誠心と自分の評判の間で揺れていた。ランス解任までの数週間の間、カーターはその問題を放置したままだった。
カーターの支持率は25ポイント急落した。
エリザベス・ドリュー(ジャーナリスト):
振り返ってみると、それほど大した問題ではなかった。しかし当時、それがカーターが築こうとしていた「非常に清廉潔白な政権」というイメージに最初の打撃を与えた。ジョディ・パウエル(報道官):
もしもっと早くこの問題を終わらせていたら、大統領にとってはもっと良かっただろう。この件が私たちの足を引っ張った。他のことについて話すのが難しくなり、私たちが国を導き運営できるかどうかという疑問にも繋がってしまった。パトリック・キャデル(世論調査担当):
あの時までは、私たちが議題を牽引していた。みんなが私たちのペースに合わせて動いていた。しかしそれ以降は、私たちが他の誰かのペースに振り回されるようになった。それが世間にダメージを与えた。もはやジミー・カーターが主導権を握っていないのだから。1977年5月22日、ジミー・カーター大統領はノートルダム大学の卒業生の前で、アメリカ合衆国の新しい外交政策を発表した。カーターは外交経験が全くない状態で大統領に就任したが、自らの足跡を残す決意をしていた。就任1年目だけで、40人以上の国家元首と会談し、中国との外交関係の再開交渉を行い、ソ連とは軍備管理の協議を再開した。また、中東で新たな平和プロセスを開始し、パナマ運河に関する新条約に署名し、75年ぶりに運河の所有権をパナマ側に移譲した。それらを通じて、カーターの信念に基づく原則がアメリカの世界における役割を再定義することになった
ベティ・グラッド(政治学者):
彼は今後、人権という問題を議題に据えたことで記憶されるでしょう。私たちは今や、国家の目的は単に国家の安全保障利益を守ることだけではないと考えている。国家には、自国にその能力がある場合には人間の苦しみに対処する義務がある。カーターの人権政策に対する最大の挑戦は中東で訪れた。カーターはイランの秘密警察の残虐性や、イランの刑務所に収監されている2500人の政治囚の存在を認識していた。しかし、1953年のアメリカ支援によるクーデターで王位に就いたシャー(パーレビ国王)は、長らく信頼される同盟国だった。1977年の大晦日、テヘランでカーターはアメリカの支援を再確認した。カーターの訪問から1週間後、反シャーのデモが勃発した。イランの秘密警察がデモ隊に発砲し、数人の学生を殺害すると、宗教指導者たちはシャー政権を反イスラム的だと非難した。
エリザベス・ドリュー(ジャーナリスト):
イランは非常に複雑な状況だった。そしてシャーは私たちにとって非常に有用な存在だった。同時に、イランでは別の何か、非常に強力な動きが起きていた。そして、私の記憶では、私たちはそれを見逃してしまった。ズビグニュー・ブレジンスキー(国家安全保障担当大統領補佐官):
私たちはいくらかの反感があること、そしてその国の歴史についてはある程度知っていたが、その感情の強さについては認識しておらず、また知らされてもいなかった。1978年には、迫りくる経済の嵐の最初の兆候が見え始めていた。株式市場は3年ぶりの最低水準にあり、貿易赤字は拡大し、失業率は上昇していた。
E・スタンリー・ゴッドボールド(伝記作家):
カーターは勝ち目のない経済状況を引き継いだ。私は彼をベトナム戦争の最後の大統領の犠牲者だと捉えている。この国が戦った戦争はすべて終わった後、経済は平時の経済に調整しなければならない。そしていつも起こるのは、制御不能なインフレーションだ。カーターは労働者や経営者に賃金と物価を抑えるよう懇願し、議会には支出削減を促した。しかしインフレーションは上昇を続け、彼の言葉は全く聞き入れられなかった。カーターのリーダーシップに対する疑念が高まっていた。大多数のアメリカ人は、大統領が細かいことにとらわれすぎていると考え、議会に対して無力であり、あまりにも多くを試みたが成果は乏しいと感じていた。
スチュアート・アイゼンスタット(国内政策顧問):
これは典型的なケースで、第一印象が人々の心に強く残るものだ。そして最初の年の第一印象は、「やりすぎ」「優先順位の欠如」「成果の不足」だった。実際には良い立法実績もあったが、あまりにも多くのことを同時にやりすぎたために、それと比べると成果がかすんで見えてしまった。支持率がわずか33%にまで下がった時、タイム誌はこう結論づけた――「彼には大統領として成長する可能性があるが、残された時間はあまり多くない。」
メリーランド州の山間にあるキャンプ・デービッドは、ジミー・カーターの避難所だった。彼とロザリンは、ワシントンの重圧から逃れるために、週末になるとこの地へと向かっていた。
そして1978年9月、ジミー・カーターはこのキャンプ・デービッドを、そして自らを、歴史に刻むことになる。
ウォルター・モンデール(副大統領):
彼は中東について多くの時間をかけて学んでいた。あの地域に平和をもたらすべきだと深く感じていた。そして、彼は本当に、自分の大統領職をそのために賭けたのだ。イスラエル建国以来、中東に平和をもたらそうとするあらゆる試みは失敗してきた。難民問題、領土紛争、テロがこの地域を悩ませていた。4度の戦争――最後は1973年――が、憎しみと不信という苦い遺産を残していた。誰もが、解決困難に見えるこの問題には関わらないようカーターに忠告したが、彼は決して思いとどまらなかった。「私は少しずつ心を固くし、思い返しても他にないほど頑固になっていった」とカーターは書いている。
ジョディ・パウエル(報道官):
中東は何年も前から、そして当時も、もし世界が破滅するとすれば、それが始まるのは中東だと考えられていた場所だった。もし超大国同士の核戦争が起きるとしたら、それは中東がきっかけになるだろう。だから、そこを落ち着かせる方法を見つけることは、カーターにとって極めて重要なことだった。エジプトのアンワル・サダト大統領は、1977年11月に和平への第一歩を踏み出した。彼はアラブの指導者として初めてイスラエルの地を踏んだ。カーター大統領はその機会を逃さなかった。翌年の9月、彼はサダト大統領とイスラエルのメナヘム・ベギン首相をキャンプ・デービッドに招き、中東に平和の基盤を築くための条約交渉を行なった。
ギャディス・スミス(歴史家):
彼は非常に綿密に物事を勉強していた。ヨルダン川西岸やイスラエルのすべての村の人口まで把握していた。これほどまでに細かい情報を吸収し、記憶しておける能力を持った大統領は、アメリカの歴史の中でもほとんどいないだろう。ベティ・グラッド(政治学者):
彼は最初に大きな誤りを犯した。彼はこう考え、側近たちにも言っていた。「ベギンとサダトを一緒に連れてきて、話をさせれば、お互いを理解し合えるようになるだろう」と。確かに彼は彼らをキャンプ・デービッドに呼んだが、最初の3回の会談が終わった時点で、両者はほとんど口をきかなくなっており、事態は急速に悪化していった。「ひどかった」とカーターは後に回想している。「彼らはお互いに容赦なかった」と。面と向かっての話し合いは不可能になってしまった。3日目、本来なら合意に達しているはずのその日、カーターは何の成果も得られずにいた。「何か方法があるはずだ」と彼は繰り返し言い続けていた。「きっと方法はあるはずだ」。その夜、ロザリンと2人きりで夕食をとっているとき、カーターはひとつの解決策にたどり着いた。もし両者が直接話せないのなら、彼らは自分を通じて話すしかない――そう考えた。
ベティ・グラッド(政治学者):
彼は、基本的にアメリカ側が提案書を作成し、その提案をテーブルに置くことに決めた。エジプトとイスラエルのそれぞれの提案ではなく、アメリカの提案が提示されるということである。「私は正直に言うと、この状況をうまく利用した」とカーターは後に書いている。「それが私自身の影響力を大いに拡大させた。」カーターは合意案の作成に専念した。50以上の問題を解決しなければならず、その作業は骨の折れるものだった。
ズビグニュー・ブレジンスキー(国家安全保障担当大統領補佐官):
彼は驚くほど粘り強く、しつこく、説得力があり、タフな精神の持ち主だった。時にはサダトに対して、また別の時にはベギンに対しても厳しく接していた。ダグラス・ブリンクリー(伝記作家):
人々が彼を誠実な仲介者として信頼したことが、とても特別で重要な形で作用した。彼は詐欺師や嘘つきではなく、自分の言葉に責任を持つ人間として見られている。「私の世界は交渉の場となり、中東のノートや地図をじっくりと読み込む書斎となった」と彼は振り返った。「会議の合間には、激しい運動と孤独な場所を求め、そこで考え、時には祈った。」
サダト大統領とベギン首相の間を行き来しながら、カーターは合意案をまとめ始めた。それは、中東交渉の枠組みであり、パレスチナ人の運命やガザ・西岸地区の将来を扱うものだった。また、エジプトとイスラエル間の別個の平和条約も含まれていた。イスラエルは1967年の戦争以来占領していたシナイ半島を返還し、エジプトはイスラエルの平和的共存の権利を認めるという内容だ。9月14日、10日目にして、カーターはこれまでの進展を阻害しかねない問題、つまりシナイのイスラエル入植地の撤去の問題に取り組んだ。
ピーター・ボーン(伝記作家):
カーターはベギンに対して、本当に合意を確実にするような譲歩を引き出すことができなかった。その結果、サダトは我慢の限界に達し、「もう帰る」と言ってしった。彼は「もうここで待っているつもりはない」と言い、文字通りコートを羽織ってドアを出ようとしていたのだ。カーターはサダトに残るよう懇願し、二人の友情と相互の信頼を訴え、エジプトとアメリカの良好な関係を思い起こさせた。サダトはキャンプ・デービッドにとどまることを決めた。9月16日土曜日、ブレジンスキーは日記にこう書いた。「大統領は自分を容赦なく追い込んでいる。シナイの入植地に関する提案文書を一人で書き上げた。」カーターはその案をベギンに提示した。最初、ベギンはイスラエルに対する要求を「過剰だ」「政治的自殺だ」と呼んだが、最終的には折れて、ユダヤ人入植地の問題をイスラエル議会に委ねることに同意した。
ベティ・グラッド(政治学者):
ジミー・カーターは机の上に3人の主要な関係者の写真を置いていた。そして彼は秘書にベギンの孫の名前を調べるように指示した。それから彼は小さなメモを書き、その中にすべての孫の名前を入れた。彼はベギンのところに行き、「これは私たちだけのためではない。私たちの孫のためでもあるんだ。これを君に渡そう」と伝えた。ベギンはそのことに深く感動した。キャンプ・デービッド合意は、外交の画期的な勝利として称賛された。「カーターはその卓越した成功と感動的なリーダーシップによって、大統領としての約束を実現するための最初の大きな一歩を踏み出した」と、報道は評価した。
ダグラス・ブリンクリー(伝記作家):
中東の歴史が書かれるとき、ジミー・カーターの名前が索引に載らないことは決してないだろう。100年後、200年後でも、人々はあのメリーランドの山々で始まったキャンプ・デービッドのプロセスについて語り続けるだろう。サダトとベギンは、和平への貢献によりノーベル賞を授与された。キャンプデービッドは、中東における将来のすべての交渉の基準となった。しかし、カーターのこの大きな成功は、アメリカ国民の間での彼の評価を改善することはなかった。
ウォルター・モンデール(副大統領):
私たちがアメリカ国民の目にどのように評価を落としてしまったかという何かがあって、この信じられないほどの外交的偉業から得られるはずだった大きな支持を得ることができなかった。私たちはこう思っていた。「これは私たちが物事を成し遂げられることを示している。重要な地域に平和をもたらしている」と。しかし、まったく動きがなかった。それは非常に落胆させるものだった。国内ではカーター大統領のリーダーシップが疑問視されていた。一方で、国際舞台では次々と成果を積み重ねていた。1979年1月、彼は中国の鄧小平副首相をワシントンで迎え、アメリカと中国の正式な国交樹立を祝った。6月にはウィーンでソ連のブレジネフ首相と会談し、SALT II(戦略兵器制限交渉第二次合意)に署名した。その後、彼は主要な経済サミットのために東京へ向かった。
わずか1年の間に、アメリカ経済は制御不能に陥った。ガソリン価格は2倍以上に跳ね上がり、住宅ローンの金利は20%に迫った。失業率も上昇し続けた。
パトリック・キャデル(世論調査担当):
国はひどい国内問題を抱えているのに、大統領は遠く離れた世界のどこかにいる。そしてそれが数日間ではなく、数週間も続いている。電話をかけて、「みんな、今すぐ帰ってこなければならない」と言ったのを覚えている。国が直面するすべての問題の中で、今やほとんどのアメリカ人がインフレを最も緊急の課題と認めていた。1979年の夏、石油価格の高騰に煽られて、その率は14%に急上昇した。
ロジャー・ウィルキンス(ジャーナリスト):
インフレは将来への不安を生む。インフレがあると、建設があまり進まなくなり、投資も減り、採用も減る。人々は貯蓄が増えているのを実感できず、実際に、インフレによって老後に貧しくなるのではないかと恐れていた。カーターは断固とした行動に出た。財政赤字を削減し、インフレを抑えるために、彼は社会保障プログラムを削減した。ホワイトハウスは、「新たな現実が、貧困層への我が国の取り組みに節度を求めている」と説明した。
アフリカ系アメリカ人の指導者たちは裏切られたと感じ、「カーターの不道徳で、不公正で、不平等な予算削減」と呼び、それに対して全面的な闘いを宣言した。
ロジャー・ウィルキンス(ジャーナリスト):
私が目指す目標を最も体現していたリーダーは、人生の最後に国に向かってこう語ったマーティン・ルーサー・キングだった。「私たちは貧しいアメリカ人のために何かをしなければならない。私たちは地球上で最も豊かな国なのだから、何かをしなければならない」と。私は民主党に投票するたびに、その候補者がキングの貧困に対する精神を魂に宿していてほしいと願っている。ジミー・カーターは、その精神から逃げてしまった。アメリカ全土で、国民の不満は限界に達しようとしていた。ペンシルベニア州レヴィットタウンでは、トラック運転手たちが高騰する燃料価格に抗議して高速道路を封鎖し、暴動が発生。100人が負傷し、170人以上が逮捕された。世論調査では、カーターは民主党支持者の間で、テッド・ケネディより支持が低くなり、共和党の有力候補ロナルド・レーガンとの模擬選挙でも敗れるという結果が出ていた。
カーター大統領の支持率は25%で、ウォーターゲート事件当時のニクソン大統領よりも低かった。彼は友人にこう語った。「ホワイトハウスの周りで、すべてが崩れ落ちていくように感じる。どうすればいいのかわからない。」
カーターは、自らのリーダーシップを再び打ち立てる方法を模索していた。ある側近は、エネルギー問題についての重要な演説を行い、経済危機の責任を中東の石油価格の高騰に全面的に負わせることを提案した。
スチュアート・アイゼンスタット(国内政策顧問):
私たちが大まかな案を作成したとき、カーターは本当にひどくうんざりしていた。「これはこれまでと何も変わらない。根本的な問題にまったく取り組んでいない。人々はこれを中身のない話だと受け取るだろう。我々にはもっと何かが必要だ」と言っていた。ヘンドリック・ハーツバーグ(スピーチライター):
それで彼は上級スタッフたちと電話会議に入った。そして、彼が辛辣にこう言った、「私はアメリカ国民を騙したくない。」カーターはキャンプ・デービッドにこもった。
その後の10日間、実業家、労働組合の指導者、州知事、ポップ心理学者、聖職者たちが山上に呼び集められ、アメリカ大統領史上でも最も異例ともいえる“内省”の場に参加することとなった。
「彼らは私に、細部にこだわりすぎているように見えると言った」とカーターは記している。
「国民は私の知性と誠実さは認めているが、物事を最後まで力強くやり遂げる能力には疑問を持っている。」
カーターの側近たちの間では、何がうまくいかなかったのか、そしてカーター大統領がアメリカ国民に対して何を語るべきかをめぐって激しい議論が巻き起こっていた。
カーターの世論調査担当者は、大統領はエネルギーや経済といった表面的な問題よりも、もっと深いテーマに踏み込むべきだと主張した――それは「アメリカ人の精神の危機」であると。
パトリック・キャデル(世論調査担当):
初めて、人々が「アメリカの未来は今より良くはならない」と信じるようになったという結果が出た。アメリカの世論調査の歴史の中で、そんなことは一度もなかった。たとえ人々が内心でそう思っていたとしても、「自分の子どもたちは自分より悪い時代を生きるだろう。国はこれから悪くなる。アメリカはもう全盛期を過ぎた」などと言うことは、かつてなかったた。それを目の当たりにして、本当にショックを受けた。というのも、それはあまりにも“アメリカ的価値観(希望・進歩・繁栄)に反するもの”だったからだ。スチュアート・アイゼンスタット(国内政策顧問):
私も、モンデールも指摘したのは、もし“アメリカ人の精神”に問題があるとすれば、それはインフレやエネルギーといった根本的な問題が原因であって、アメリカ国民そのものに何か欠陥があるわけではないということだ。ウォルター・モンデール(副大統領):
私はアメリカに深刻な問題があり、それは神秘的なものではなく、国の精神的な病気や崩壊に根ざしているのではないと主張した。実際にガソリンの長蛇の列があり、本物のインフレがあって、人々は現実の生活の中で仕事を失わないかどうかを心配しているのだ。パトリック・キャデル(世論調査担当):
副大統領は私を見ていて、ほとんど私が狂っていると非難しているようだった。実質的に大きな分裂があった。それからジミー・カーターは、こう締めくくった。その瞬間を決して忘れない。「みんなが言ったことを聞きたかっただけだ。決めた。パットが言ったことを全部やる。」と。7月15日、10日間の隠遁生活を経て、ジミー・カーターはメリーランドの山を下り、彼の政権で最も物議を醸した演説を行った。
ロジャー・ウィルキンス(ジャーナリスト):
もしあなたのリーダーシップが明らかに本来あるべき強さを欠いているなら、国民を指差して「それはあなたたちの問題だ』と言ってはいけない。もし国民を動かしたいのであれば、ルーズベルトのように彼らを動かすか、ケネディやジョンソンのように彼らに奮起を促すべきだ。「それはあなたたちのせいだ」と言うべきではないのだ。ダグラス・ブリンクリー(伝記作家):
オピニオン記事が次々に出始めて、「アメリカ国民に問題はない。我々は素晴らしい国民だ。もしかしたら問題はホワイトハウスにあるのかもしれない。新しいリーダーシップが必要なのかもしれない」と書かれるようになった。それが逆効果になった。新たな出発という印象を与えるため、カーターは全閣僚に辞表を提出するよう求め、そのうち5人の辞表を受理した。
支持率回復を狙った閣僚一斉辞任は、逆にカーターの指導力不足や混乱を印象づけ、国民からの支持をさらに失わせた。
その秋、民主党のリベラル派はついに大統領と決別し、テッド・ケネディを支持することに決めた。マサチューセッツ州選出の上院議員は、民主党の指名をめぐって熾烈なキャンペーンを繰り広げることとなった。ジミー・カーターにとって、何もかもがうまくいかないように思えた。
1979年11月4日、それらすべては些細なことに思えた。数日前、3500人のイラン人学生たちがテヘランのアメリカ大使館に向かって行進し、大使館を占拠しようと脅迫していた。1978年初頭に始まった反シャー運動は、完全なイスラム革命へと成長していた。シャーは亡命を余儀なくされ、アヤトラ・ホメイニは新しく神秘的なイスラム共和国の指導者となった。
ギャディス・スミス(歴史家):
もしカーターがシャーをもっと批判していたなら、アヤトラ・ホメイニがアメリカを“大悪魔”と名指しして、イランのすべての問題は基本的にアメリカのせいだと言うのは、もう少し難しくなったかもしれない。アメリカが1945年からイランの重要なプレーヤーであったという事実もあり、カーターや他の誰かがイラン革命の深い敵対的な性質を変えるには手遅れだったのかもしれない。しかし、それは違いを生んだ可能性がある。革命の最初の数ヶ月間、カーターはホメイニ政権との関係を築こうと努力していた。しかし、アメリカとイランの関係の歴史がすぐに彼に追いつくこととなる。数ヶ月間、追放されたイランのシャーは中東をさまよい、次いでラテンアメリカへと向かった。癌を患い、彼はアメリカ合衆国に医療を受けるために入国許可を求めた。
ウォルター・モンデール(副大統領):
数人でテーブルを囲んで、シャーの再入国を大統領が許可すべきか話し合っていた。私たちには、シャーを受け入れればイランで大きな反発が起きるだろうと警告する人たちがいた。しかし、シャーはどこか哀れな感じで世界中を飛び回っていた。そこに、アメリカという大国が「私たちの病院の一つにもあなたを受け入れません」と言っているわけだ。部屋を一周して、多くの人が「彼を受け入れよう」と言った。ズビグニェフ・ブレジンスキー(国家安全保障問題担当大統領補佐官):
私は彼を受け入れるべきだと主張した。なぜなら、私たちは彼を良い時期には同盟国として扱ってきたし、悪い時期には元同盟国として、しかし友人として扱う責任があると感じたからだ。私はアメリカの信用がかかっていると感じていた。ウォルター・モンデール(副大統領):
そして彼はこう言った、「もしこの革命が、私たちの大使館の職員を人質に取るような方向に進んだ場合、あなたのアドバイスは何ですか?」その瞬間、部屋は完全に静まり返った。シャーは10月22日にアメリカに到着した。2週間後、イランの学生たちがアメリカ大使館を占拠した。53人のアメリカ人が人質として拘束され、アメリカがシャーをイランに返すまで解放されないこととなった。すべての人がホメイニからの言葉を待っていた。革命を固めるチャンスと見たアヤトラは、アメリカ大使館に祝福を与え、「スパイの巣窟」と呼んだ。「私は夜寝られずに、私たちの国の名誉と安全を犠牲にすることなく、人質の解放を得るために取るべき手段を考え続けていた」と大統領は記した。カーターは軍事的選択肢をリスクが大きすぎるとして全て拒否した。「問題は、数時間は手応えを感じるかもしれないが、その後に彼らが私たち側の人間を殺したと分かることだ」と彼は言った。
ダグラス・ブリンクリー(伝記作家):
彼はあの男たち全員を無事に連れ戻す決意だった。カーターの道徳主義、彼のキリスト教精神が外交政策に影響を与えているのがわかる。すべての人命には大いなる神聖さがあると信じていて、手に血をつけたくなかったのだ。ロジャー・ウィルキンス(ジャーナリスト):
成功した政治家はリスクを天秤にかけなければならない。そして時には、限られた数の命に対するリスクが、後々、多くの命を救うことになる。人質を帰国させるために、あらゆる手段が尽くされた。サイラス・ヴァンス国務長官がイラン政府の官僚と交渉をしている間、ハミルトン・ジョーダンは希望を持っている誰とでも秘密裏に会った。「私たちの生活は、次々と計画が崩れていく中で、感情のジェットコースターのようなものになった」とロザリンは後に回想した。「テレビで人質を見るたびに、私は彼らの数を数えた。」
4月になると、圧力はますます強まり、状況はますます絶望的になっていた。「もはや外交に頼っている場合ではない」とカーターは結論せざるを得なかった。「情報報告から、今後5、6ヶ月間で人質が解放される可能性はほとんどないとわかっていた...私は行動することに決めた。」それは「デザート1」と呼ばれた。6機のC-130輸送機、90人の救助チーム、2機のC-141スターフリフター、8機のヘリコプター、そしてほぼ不可能な兵站(ロジスティクス)が必要だった。
テヘラン南部、イランの砂漠で、救出ミッションは悲劇的な結果に終わった。2機のヘリコプターが故障し、別の1機は砂嵐の中でC-130に衝突した。
デザート1で8人が命を落とし、さらに3人が重度の火傷を負った。
ジョディ・パウエル(広報担当官):
その時、私は「人々は大統領が試みたことに対して評価するだろう」と思ったが、同時に、近い将来にあの人たちを解放できる可能性が非常に低いことも実感していた。そして、政治的な立場から見ても、それは非常に重い負担になるだろうと思いた。1980年8月、カーター大統領はエドワード・ケネディ上院議員からの民主党候補指名争いを乗り越えた。選挙戦は激しく、党内を分裂させるものであったが、最終的にはケネディがあまりにもリベラルすぎ、またスキャンダルにまみれているように見えた。
共和党候補のロナルド・レーガンは、労働者階級のアメリカ人たちの前で行った演説で、労働者の日に選挙戦を開始した。この演説は、広範囲にわたる攻撃を含んでいた。
ロナルド・レーガン(アーカイブ映像):
ジミー・カーターの政権は、自由の国で新たな生活を始めるために犠牲を払った人々の子孫たちが、自分たちを新しい土地に導いた夢を捨てなければならないかもしれないことを私たちに教えている。カーター政権の記録は、絶望の連続であり、壊れた約束、捨てられ忘れ去られた聖なる信託の連なりだ。ロジャー・ウィルキンス(ジャーナリスト):
レーガンは非常に手強い人物だった。彼の信念は多くはなかったが、非常に明確で、その演技力が人々を引きつけ、「この人は言っていることを本当に意味していて、信じているのだ」と感じさせた。カーターはレーガンに20ポイント以上の差をつけられていた。ソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻し、イランでは人質が拘束され、経済は崩壊状態にあり、彼は非常に脆弱な立場にあった。
自分の実績で戦うことができなかったカーターは、レーガンを核ボタンを押す指を持つ、引き金を引きやすいカウボーイとして選挙広告で攻撃的に描いた。
パトリック・キャデル(世論調査担当):
使える手は何もなかった。使えるカードがなかったからだ。私たちはもう出来事に縛られ、何のアイデアも出せない政府に縛られていた。基本的に私たちは人々をひどく苛立たせていた。でも、みんなはまだジミー・カーターが世界をめちゃくちゃにしないと信じていた。それが唯一の希望だった。10月28日、1億人もの視聴者が、大統領討論史上最大の視聴者数でテレビにかじりついた。候補者たちは接戦を繰り広げていた。
ジミー・カーター(アーカイブ映像):
...非常に高額な医療費がかかった場合、保険がその支払いを助けることになります。これらはアメリカの人々にとって重要な国民皆保険の要素です。レーガン知事は再び、こうした提案に反対しています。パトリック・キャデル(世論調査担当):
彼は最初の30分で勝った、狂ってなかったということで。討論の最初の部分で変化が見えた。90分を通じて感じられたのは、彼は危険じゃない、ってことだけだった。それが彼に必要なすべてだった。選挙日の前の月曜日は、ジミー・カーターにとって悪夢のような一日だった。
カーターはミシシッピ州、オレゴン州、ワシントン州で一日中、夜遅くまでキャンペーンを続けた。シアトルに到着したのは午前3時で、最後の集会、最後の演説が待っていた。
ジミー・カーター(アーカイブ映像):
明日、自分自身のために投票してください、民主党に投票してください、私たちを助けてください、神のご加護がありますように。ジョディ・パウエル(広報担当官):
私は何かを終わらせるために飛行機に残っていた。降りる前に電話が鳴った。それはワシントンのハミルトン・ジョーダンとパット・キャデルからだった。彼らはその日の追跡調査の結果を見て、こう言ったんだ。「基本的に終わった」と。ジョディ・パウエル(広報担当官):
私は彼の演説を聞きに行った。その時、私はおそらくその場で唯一、選挙が基本的に終わったことを知っている人間だと思っていた。そして、私たちは――私たちは負けた。圧倒的な結果だった。カーターはわずか6州しか勝てなかった。28年ぶりに、民主党は上院の支配権を失った。
大統領としての最後の日、ジミー・カーターは一晩中起きていた。イランとの合意が成立し、人質の解放が間近に迫っていた。ABCニュースのスタッフがその歴史的瞬間を記録するためにスタンバイしていた。
ウォルター・モンデール(副大統領):
彼は自分の任期中にこの人質を家に帰さなければならないと強く思っていた。もう再選のためではなく、彼がそれに対して深く感じていたからこそ、何としてもこれを成し遂げたかったのだ。私たちはおそらく午前2時頃、大統領執務室にいた。そして何も起こらなかった。完全な静寂の中で。しかし、午前9時に差し掛かると、私たちはもう就任式に出席しなければならなかった。新しい大統領が11時に就任する予定だった。それで、最終的に私たちは皆走り出した。そしてまだ一人の職員がホットラインの電話を持って後ろに残っていて、何かニュースがあればすぐに知らせる体制だった。そして彼は就任式の道中、また壇上でもカーターと連絡を取り続けていた。だから、何か良いニュースでも悪いニュースでも、彼はすぐに耳にすることになっていた。そしてもちろん、伝えられている話では、ホメイニはレーガンが大統領になった瞬間に人質を解放したということだ。
1981年1月20日、3000人がプレインズの古い鉄道駅に集まり、カーター夫妻の帰郷を歓迎した。
カーター夫妻は回顧録を書き、また大統領図書館を建設する計画を立てることにした。しかし、カーターは自分を「自分への記念碑」と呼ぶものを建てることにあまり熱意を持っていなかった。
ロザリン・カーター(夫人):
ある晩、私は目を覚ましたら、ジミーがベッドでまっすぐ座っていた。それは私たちが帰国してから約1年経った頃で、私は「どうしたの?」と尋ねた。彼が病気だと思った、なぜなら彼はいつも一晩中ぐっすり眠るから。ホワイトハウスにいる時も同じで、物事を切り替えてすぐに寝ることができる。彼は言った、「図書館でできることが分かった。紛争を解決する場所を作ればいいんだ」。それが、後にカーターセンターとなるアイデアの芽生えだった。キャンプ・デービッド合意での成功に触発されたカーターは、世界の指導者たちを迎え、内戦や政治的対立を仲裁する場所を構想した。
2800万ドルの費用をかけて、カーターセンターは35エーカーの敷地に広がり、樹木園や湖を含み、100人以上のスタッフが働ける十分なスペースが確保された。
1986年、カーターセンターの開設式で、レーガン大統領はかつて自分たちに拒絶された男に対する尊敬の念が高まっていることを表明した。カーターセンターを通じて、ジミー・カーターは「長老的な政治家」としての新しいキャリアをスタートさせた。世界中を旅する中で、カーターは貧困層や権利を奪われた人々のために尽力してきた。
ヘンドリック・ハーツバーグ(スピーチライター)
退任後の活動がどれほど称賛に値するものであっても、それだけで現役時代の評価が変わるわけではない。ただ、そうした活動は、大統領としてどんな人物だったのかを照らし出す材料になる。何が真実で、何が作られた姿だったのか。彼に備わっていた力強さ、我慢強さ、献身、誠実さ──それらが疑いなく本物だったということは、今や明白だ。バート・ランス(元予算局長):
彼はアメリカ国民に嘘をつかなかった。平和を守り、命を失うことなく人質を帰国させた。彼が言っていたことをすべて成し遂げた。私たちが大統領として、信頼を置けるような人物を必要としていた時期に、まさにそのような人物だった。ダグラス・ブリンクリー(伝記作家):
カーターとは一体何だったのか? 彼には一言で言えるようなプログラムがなかった。彼はフランクリン・ルーズベルトの「ニュー・ディール」の伝統にも、ジョン・ケネディの「ニュー・フロンティア」の伝統にも、リンドン・ジョンソンの「グレート・ソサエティ」にも興味を持たなかった。彼は自分がやりたいことを大きなアジェンダとして明確に示すことはなかった。ただ、目の前に立ちふさがる課題に一つずつ取り組んでいったのだ。ヘンドリック・ハーツバーグ(スピーチライター):
歴史は、彼を彼の同時代人たちが見たよりも優しい視点で見るだろうと思う。彼の価値観、平和と人権への献身は──たとえ彼の失敗や弱点が記憶の中で薄れていっても──今でも響き続けているのだ。
【了】